川合東京美術学校教授辞職
1936年06月東京美術学校教授川合玉堂は予てより辞意を有してゐたが、六月十三日和田校長を経て其の辞表が文部省に提出された。
東京美術学校教授川合玉堂は予てより辞意を有してゐたが、六月十三日和田校長を経て其の辞表が文部省に提出された。
六月四日の会員懇談会に提示された文相の試案は其の後主要美術団体に対しても当局より提示し之に対する答申を慫慂してゐたが、第一部会では十三日午後六時から新橋東洋軒に総務会を開いて答申案を協議した。
帝国美術院会員小室翠雲は六月十二日前記会員等が辞表を提出したことを知つて、別個の見解から同様辞職を決意し、同日午後会員の辞表を院長宛提出した。其の理由は、文相試案は展覧会開催のみを重視して美術奨励機関としての帝国美術院本来の使命を没却し重要な鑑査問題にも触れてゐず、予てより意見書として提出した理想は全く容れられず今後如何に協調しても到底相容れない。且つ多数会員の辞職した今日ではむしろ速に一切を解消しておもむろに時の至るを待つ方がよい。といふものである。
六月十二日帝国美術院会員十六名が辞表を提出したことは、帝展問題の解決に頓挫を来し、帝国美術院の将来にも多大の危惧を感じさせるに至つたが、同十三日午後一時平生文相は談話の形式を以て、左の如き声明を行つた。 「自分のこの際考ふるところは日本美術の真の発達振興に適し有力なる美術家大多数の希望に合致することであつて又新進有為の美術家を鼓舞激励しその将来の大成に資するやうな方法の確立を希望してゐる。これがために虚心坦懐慎重なる態度をもつて種々の状況を考慮し又充分各方面の意見を聴き、その協力一致の下に最善と信じられる方策を樹立せんことを期してゐる、なほ自分として秋の展覧会の開催せられることを期待してゐる。」
春陽会では六月十一日夕青山辰好軒で委員会を開催し、平生文相の試案に就き協議の結果、之に賛意を表することとなり、同十二日左の声明書を各方面に送附した。 「政府展試案に対する春陽会の声明書 平生文相が六月四日美術院会員懇談会にて説明せる政府展試案(その説明要旨プリントに依る)に対して意見を述べこれについての春陽会の立場を明らかにします。 一、春陽会の性質 春陽会は従来満十五年民間団体として自営して来た会で、今後も亦、会員の存続する限りいつ迄も民間団体として自営独立して行く一つの展覧会団体です。政府展の成立有無に拘らず右は変りません。 二、文相の政府展試案に対する春陽会の主意春陽会は夙に昭和十年九月試案を提出した通り、綜合展が成立するについては大いに協賛の立場ですから、政府展が綜合大同を意とする限りこれに賛成支持します。 三、その方法について 政府展試案は仮りにその開催を春秋二季とする招待展と鑑査展に分れてゐますが、この分割案乃至その主催別の大案については賛成です。 四、招待展について この被招待資格は、試案に従ふと未だ範園明らかならざるも、若し旧帝展の無鑑査が全部復活する等の場合があれば、春陽会は会の銓衡したる会友の全数迄右資格の中に含まる可きことを主張します。 五、鑑査展について 春陽会本来の意見としては、文部省がこの鑑査委員を求むる場合は美術院に諮ると同時に在野団に諮る可く、在野よりこの依嘱を受ける者は美術院に依つて銓衡される性質よりも各自所属の団体それ自身から選任された代表者であるべきことを条件とします。 団体尊重は従来と変らず向後も春陽会の根則であります。 しかし当面の場合は、右を固執主張すると、その結果その方法論だけで大同より遠ざかつて小異を樹てる立場に傾くこと有る可きは好まないので、便宜上政府展試案に依る場合―鑑査委員依嘱内規案の第一案を採ります。 以上。 細部に渉つては略します。」
六月四日文部大臣主催に依る懇談会開催後、会員の間では文相提出の試案に就いて種々考究されつゝあつたが、六月十二日に至り、第一部に属する川合玉堂、菊池契月、鏑木清方、橋本関雪、富田渓仙、横山大観、安田靭彦、前田青邨、小林古径、第二部和田英作、梅原竜三郎、第三部佐藤朝山、平櫛田中、第四部富本憲吉合計十四名の会員は夫々辞表を提出し、同夜連名を以て左の如き声明書を発表、其の理由を明にした。 「不肖等さきに帝国美術院改組の趣旨に賛成し文部当局の懇請に応じて会員の任命を受け爾来全力を挙げて新帝院の使命達成に尽瘁し総会の決議に基きて今春その第一回展覧会を開催し十分の成績をもつて当局の信任に応ふるを得たりと確信せり然るに偶々文部大臣の更迭に曾し未だ既定の秋期展覧会の開催も見ざるに当局の方針突如として一変し改組以来の経過と厳たる院議の決定とを無視し不肖等の絶対支持をも顧みず新大臣は曩に帝国美術院が天下に公約したる展覧会の構成を破棄することを前提とし全く改組の趣旨を没却せる試案を提示するに至れるは不肖等の甚しく遺憾とするところにして不肖等は新当局の到底信頼すべからざるを確認し茲に会員の職を辞するものなり。 昭和十一年六月十二日 橋本関雪、富田渓仙、富本憲吉、和田英作、川合玉堂、鏑木清方、横山大観、梅原竜三郎、安田靭彦、前田青邨、小林古径、佐藤朝山、菊池契月、平櫛田中」
帝国美術院会員川端竜子は同じく六月十二日会員の辞表を院長宛提出した。独自の理由に依る所から前項の声明書には名を連ねなかつたものである。其の談として伝へられる所は左の如くである。 「今回文部大臣から示案された帝展再改組の件につきましては会員として来るべき総会で審議協定すべき責任を感じてゐましたところ本日前改組に当つて在野団体から共に任命された多数会員が辞任されるに至りました。色々と私も熟慮した末事既にここに至つては当局の意図さるゝ企画とは相距ることの遠いものであると同時に私の新帝展への意念も別個のものとなつてしまひました、甚だ遺憾ながら右のやうな理由で美術院会員を辞任するに至つた次第です。」
実在工芸美術会では文部当局より文相試案に対する意向を諮問せられたので、之に対する会員の意見を纏め六月十日大要左の如き意見書を決定、当局に提出した。 「第一案 一、展覧会は帝院より分離して総て文部省の事業とする。 一、文展は年一回綜合展とし鑑査を撤廃し、出品資格を制定する。 一、出品者資格は当局が認定した各団体に数を割当て、各団体より選出させる。 第二案 一、招待展と鑑査展は共に文部省主催とし、秋季に連続開催する。 一、被招待者の内容は厳密に考慮すること。 一、鑑査展には無鑑査資格者も鑑査を得て出品し得ることとする。 一、審査員には会員を参加させぬこと。 一、審査員は各団体に人数を割り当て夫々選出させる。 第一案を根本とするが、之は文相案と余りに距離があるから、歩み寄る意味で第二案を提出するものである。」
日本版画協会では過般ジユネーヴ及びマドリツドで日本現代版画展覧会を催したが、更に米国各地及び欧洲に巡回展覧会を開く計画が熟し、文部、外務当局及び国際文化振興会の支援を得て之を実現する為同会派遣委員旭泰宏は、六月十一日発秩父丸で桑港に向け出発した。
文部次官三辺長治及び文部省専門学務局長赤間信義は六月九日附依願免官となり次官の後任としては普通学務局長河原春作、専門学務局長の後任としては思想局長兼任で伊東延吉が、夫々同日附を以て任官された。
帝国美術院第二部に属する会員石井柏亭、有島生馬、山下新太郎、安井曽太郎の四名は、平生文相の試案に関して協議を遂げた結果左の修正案に到達し、之を最後的断案として六月十日清水院長宛に提出した。内容の要旨として伝へられる所は左の如くである。 一、展覧会は一年一回各部綜合で秋季に開き、主催は帝国美術院たるべきこと。 一、招待展、鑑査展に二分することに反対す、鑑査を経たる作品と無鑑査作品とを同時に陳列すること。 一、出品多数の為同時に陳列し難きときは会期半で陳列替を為すこと。 一、参与を其の侭に存置し名称を展覧会委員と改むること。 一、鑑査は各部会員之に当り展覧会委員を参加しむること。 一、指定及び附則の無鑑査出品者の人員に多少の増加を認むること。
東京美術学校日本画科卒業生の組織する東台邦画会の有志は、六月六日夕同校倶楽部に会合し、平生文相が帝院会員懇談会に提示した展覧会試案に就き協議した結果、一同之に賛成して支持することゝなり、其の旨を文書として文相に提出することに決定、九日代表等は文相官邸を訪問し建白書を提出した。
第一部会では平生文相の展覧会試案に就き態度を決する為、六月八日夜新橋東洋軒で会合を開き、協議の結果之に賛成することとなり直に建白書を作製、翌九日代表者が文相を訪問して之を提出した。
過日設立された挿絵画家の団体挿絵倶楽部では、挿絵の著作権が一般に尊重されて居らぬことを遺憾として、「著作権法中に挿絵に関して明確なる条文を加へられんこと」を希望する旨を決議し、五月二十八日著作権審議会宛に其の決議書を提出した。
平生文部大臣は就任以来帝展問題を中心とする美術界の紛争解決に関心を持ち、特別議会等で多忙中にも拘らず諸方面の意見を徴し収拾策を考究中であつたが、漸く成案を得たので帝国美術院総会開催に先ち、六月四日文相官邸に帝国美術院会員懇談会を催した。会は第一部、第二部、第三部及び第四部の分科別に三回に分けて開かれ、清水院長を座長とした懇談会の形式で、席上文相より展覧会開催方法其の他に関する改革の試案を提示し会員の考慮を求めた。尚其の他に現代美術館建設、帝国美術院会員の増員等を実現する意志ある旨を発表した。之に対し会員の意見交換が行はれたが即答はなさず、各自文相案に対して十分考究することとなつた。
明春汎太平洋博覧会が名古屋に開催され、其の事業として大美術展覧会が開かれる予定であるが、之に対して同市在住の洋画家達四十余名は会合意見を交換し、其の中の二十余名は更に五月十九日協議を重ねた結果 一、諮問委員会の設置方を早急に実現されたい。 一、同委員は名古屋在住者を主体とすること。 一、同展無鑑査出品は二科、国展、二部独立、春陽の各会員及び会友以上(旧帝展は特選以上)と内定せられたいこと。 の三項を市当局に要望することとし、二十日伊藤鎌、中野安治郎、魚津良吉の三名が市を訪問して之を提出した。(新愛知五・二一に依る)
京都在住の帝国美術院会員、西山翠嶂、西村五雲、土田麦僊の三名は、五月二十四日連名を以て意見書を平生文相に提出し、竹内栖鳳と同意見なる旨を明らかにした。その内容として伝へられる所に依れば、 一、帝国美術院は美術に関する最高諮問奨励機関とす。 一、美術展覧会は帝国美術院より分離し文部省これに当る。 一、美術展覧会は各美術団体聯立の機構による。 一、参与、指定、附則の階級別を改む。 とするものである。
挿絵画家が団結して新団体挿絵倶楽部を組織し、五月十六日午後六時丸の内マーブルに四十余名会合、其の結成式を挙げた。
主要美術団体を網羅した東叡会所属の二十七団体では、現在の東京府美術館は「大衆観覧者を対象とする展覧会場としては、地の利を得ざるのみならず、その構造に於ても適当ならず」として同館を「常設美術館として、その意義あらしむることを望むと同時に、都心丸の内附近に一大展覧会場を設立」せんとする希望から、其の実現運動を起すこととなり、五月十六日夜丸の内マーブルで右団体代表者等の会合を開いて協議し、実行委員として左記二十五名を挙げた。 石川寅治、今井滋、岩佐新、梅原竜三郎、太田三郎、川端竜子、垣見宣修、木村荘八、熊岡美彦、小島善太郎、坂井犀水、斎藤素巌、佐藤哲三郎、笹鹿彪、田口省吾、田中咄哉州、富田温一郎、中出三也、藤岡一、藤本韶三、甫喜山義夫、益田義信、望月省三、湯原柳畝、吉田白嶺。